少女の朝は、ベッドから始まらない。
大抵の場合は、カーテンも引かれていない部屋の床に転がったまま朝日を浴びて目覚めるし、
深い森の中で、湿った土の感触と木々のざわめきの中で目を覚ますこともある。 

 少女には無意識を操る力がある。
だから考える前に身体は動くし、疲れを意識したこともない。
そうして意識せず疲労を溜め込んだ身体は、当然の帰結として限界を迎えて横たわり、眠りに落ちるように意識を失ってしまう。
無意識を操るといえば物凄い事のように思われるが、実際のところは自分自身すら満足に操れないといった有様だった。

 この日は運良く寝室で眠れた、らしい。
らしいというのは、眠りに落ちた記憶がないからだ。
無意識の行動は記憶として残りにくい。それもひどく曖昧だ。
どこかで倒れていた少女を誰かが親切にも部屋まで運んでくれたのかもしれないし、逆にどこかに連れ去られる事だってあるのかもしれない。

 ともかく、本日の寝覚めは悪くなかった。

「んぅ……んー……」

 寝ぼけ眼をこすり、次いで周囲を見渡し、伸びをする。
おかしな姿勢で眠ってしまったためか、ぱきぱきと幼い少女らしくない渇いた音が立つ……気がする。
衣服はよれよれだし、柔らかさが自慢の淡い色合いの髪も少しぱさついて感じられる。

「……おはよーございまーす……ふわぁ……」

 実は少女は人間ではないので、あくまでそんな気がするだけなのだが。







 つい無意識にシャワーを浴びた後、思い出したかのように――というか思い出したので時計を確認する。

「あ」

 予定の時間は僅かに過ぎていた。
 予定を思い出せただけで僥倖そのものだった。
 慌てて支度に駆け回る。
 化粧はしない。
子供が余計な事すんなと怒られたのは記憶に新しい。

「着替えはいつものでいいかな」

 エンパイアワンピースの上にボレロなど着込んで喜び勇んで出かけた過去もあるのだが、似合わない十年早いの二言で、すげなく引っぺがされてしまった。
つまりはありのままの少女が一番ということである。感動的な話だった。






 芸能プロダクション『リトルエモーション』。
街の一等地から半歩外れた場所にあるそこそこ大きなビルが少女の仕事場だ。
正確にはここから仕事場に出かける訳だが、れきせんのつわものである彼女にとっても重要な拠点である事に変わりはない。

「おはようございまーす」

 受付のお姉さんに一声かけて侵入を試みる。

「え、ちょっ……!?」

 捕まった。

「あなたどこから来たの? お父さんとお母さんは?」

 膝と腰を曲げ、視線の高さを合わせて、優しい声色で訊ねられる。
仕事柄というのもあるだろうが、それ以上にこのお姉さんの気質が穏やかなのだろうと……
このやり取りを何度か繰り返した少女は、何度目かのように、思った。



 さらに幾度目かの一進一退のやり取りを経て、ようやく在籍の確認を取ってくれるようになったらしい。受付の女性は内線の受話器を手に取った。
ここまでくればもうこちらのものだ。あとは内線の向こうで予定のメモや書類を見つけてもらうだけでいい――。



 少女の現職業は、学生兼冒険者兼芸能タレント。
ミュージシャンとして形容するなら、ピアノシンガーとアイドルの合いの子と呼ぶのが正しいかもしれない。
 得意楽器は当然ピアノ、キーボードで、歌声はやや低音が苦手な欠点こそあるものの、綺麗で、通りも張りもある。
技術的には多少詰めの甘いところも指摘されるが、荒削りというほどの瑕疵もなく。総評して水準以上と言える。

 だが、一番の魅力は、何よりもその表現力の高さにあるのだろう。
音色に情感を乗せ、躍る指先。
詞とメロディを一体のものとして昇華させて、聴く者の深層を震わせる歌声。
表情から仕草の一つ一つに表れる、色。
無意識によるほぼアドリブで構成されたダンス(これだけは主に振付師を怒らせて大目玉を食らった)。
 もちろんダンスと演奏を同時には行えないので四位一体とはいかないのだが、
これらは、まるで不思議の国に迷い込んだアリスのように、聴衆を少女の世界に惹き込むだけの魅力――
意識的にはけして作り出せない<無意識の美>とも呼べるものが、少女にはあった。

 とはいえ、その知名度は今や0に等しい。無名もいいところだ。
――より正確に言えば、一月ほど前から無名となった。



 受付のお姉さんはまだ通話先と話し込んでいる。どうやら少し揉めているらしい。
出来ることもなく、何とはなしに懐を探ってみる。たっぷりの袖、ひらひらのスカート、物を隠す場所は沢山ある。なくてもある。
ごそごそ、ごそごそ。

「……希望の面」

 出てきたのは、一応肌身離さず持っている年代物の真っ白いお面。子供のような顔をしている。
確か新しい面が作られたはずだから、これは正しくは旧・希望の面だ。

「つんつん」

 特に意味もなく面の頬を突付きながら、少女は少しだけ想いを巡らせる。
どこでどうやって手に入れたのか全く覚えていないのだけど、きっとどこかで拾ったのだろうと思う。
いや、仮に本来の持ち主とやらが現れたとしても、これはちょっとだけ手放しがたい。
 この面は少女の宝物だった。
愛着を除いても、この一年随分と助けてくれたし、今も……一応助けてくれては、いる。

 名前通り希望の象徴である、この希望の面には、希望の感情や力を蓄積して持ち主にも影響を与える効果がある。
この面があるからこそ、無意識に身を置く少女も存在感を保ち、いくらかの感情を表すことが出来ていた。

 あの日、レガリエ・エンキスの城でライブを行った後。
学園の仲間達と共に大きな異変に巻き込まれたあの日から……どうしてだろうか、希望の面は不安定になった。
 新しい面が作られた以上、旧い面が次第に力を失っていくのは必然だ。
けれど、思っていた以上に磨耗が激しい。
このままいけば、もう1年も持たないかもしれない――いや、それどころか、いつ失われたとしてもおかしくはなかった。

 兆候は既に表れていた。






「今月いっぱいで辞めてほしい」
 プロデューサー――この世界ではマネージャーを兼任する場合も多いらしい――は、開口一番にそう言って頭を下げた。
呆れるほどの単刀直入さに、少女は目を丸くする。
 しかし、思い当たる節はあった。

 何度も忘却し、今朝のような確認作業を繰り返す事になる事務所。
――それを見越して、30分早く組まれるようになったスケジュール。

 何度も忘却され、ライブでどれだけ熱狂させたとしても継続されない人気。
――卵を産まない鶏を飼う必要はない。

 何度も忘却され、周囲に混乱をもたらした。
――共演者さえも、先ほどまで誰と共演していたのかを忘れる事態もあった。

 今月の予定には、もう何も組み込まれてはいなかった。

 どうして今まで気付かなかったのだろう。
こんな毎日が、続く筈がなかったのに。
 脱いだ帽子を、きゅっと胸に抱く。

「ありがとうございました」

 それだけを返して、同じように小さな頭を下げた。






 街の雑踏は途絶える事はない。
晴れて自由の身むしょくとなった少女は、ぶらぶら――ふわふわと、夢を見るように身軽に歩みを進める。
 幼げな少女が白昼のビジネス街を我が物顔で闊歩しても、道行く人は誰も気に留める様子はない。
どうも、希望の面はまた不機嫌になったらしい。
道端の小石を大げさに避けて歩く人など居ない。
ぶつかりそうになるのを少女の方から、ひらり、ひらりと避けて進む。



 誰からも見向きもされない小石のような少女が、ダイヤモンドみたいに一際輝いて衆目を集める。これほど痛快なこともそうはないだろう。
そうでなくとも、皆から注目されるのは嬉しかった。
 だけど、シンデレラの魔法は解けて、残ったのは襤褸布と、ガラクタと、灰被りと、彼女を嘲笑う南瓜だけ。
少女がこの分野で花開く事は、きっと永遠にない。
いや、名声を得られないのだから、どんな分野でだって同じ事だった。

「誰か、わたしの声が聞こえますかー?」

 ふと、脳裏に誰かの影が過ぎり、空を見上げた。
それは、この世界で出会った誰かの姿だったのかもしれなかった。
 指折り、数える。両手の指を往復しても、まだ数える。
記憶が頼りにならないからメモだって取った。
 覚えている。
それだけで、空っぽの胸が少しだけ温かくなった気がした。

「誰か、わたしの歌が聴こえますかー?」

 だけど、学園の仲間達も、きっと、こうなる。
 近い未来に。
そう思うだけで、空っぽの胸に少しだけ痛みが走ったような気がした。

 もっとも、少女は人間ではないので、あくまでそんな気がするだけなのかもしれなかった。






 メメントという少女の生に意味はあったのだろうか。
そんなものないよ、と無意識わたしだけの世界に声がした。
けれど何のことはない。古明地こいしメメントわたし、それだけのことだった。

「(――だからという訳でもないのだけれど)」

 もう少しだけ歩き続けよう。
この胸を、虚ろな空白が満たすまで――












 眼は物を言わない。
 少女は今日もわらっている。

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